がんばっている日々から逃げ出したくなった心を癒す、おひとりさま専用カフェ『今宵も喫茶ドードーのキッチンで。』
公開日:2022/6/4
SNSで他人の日常を簡単にのぞけるようになり、ちょっとしたモヤモヤを感じる機会が増えた気がする。「重要なプロジェクトを任された」「空いた時間で話題のカフェへ」「将来に向けて勉強中」……。そういった投稿を見ていると、「それをしていない自分は、努力や才能が足りないのではないか」「それがいいと思わない自分は、なにか欠けているのではないか」と思えてきてしまう。
『今宵も喫茶ドードーのキッチンで。』(標野凪/双葉社)に登場する喫茶店の客の中にも、それに似た葛藤を抱えている人がいるようだ。
物語の舞台となる〈喫茶ドードー〉は、住宅街にある路地の突き当たりでひっそりと営業しているカフェ。路地の入り口には小さな看板が出ているのに、気づく人はあまりない。周辺が、鬱蒼とした木々に囲まれているせいだ。その店舗をひとりで切り回しているのは、「そろり」と名乗る男──年のころは30代後半から40代前半、黒縁の丸眼鏡、寝癖のような縮れ毛の天然パーマに、黒い胸当てエプロンをかけた店主である。
収録されている5編の短編のうち、最初の物語の主人公は、翻訳者の小橋可絵。もともと在宅の仕事ではあるが、人々がマスクをかけ、リモートワークが推奨されるようになった今、やはり家で過ごす時間は増えた。通販でモノを買うことも増えたが、そのとき参考にしているのが、SNSで「ていねいな暮らし」を発信しているsayoのアカウントだ。中古マンションをDIYで改装する、祖父母の家で眠っていたミシンを蘇らせる、南部鉄器のスキレットで餃子を焼く。可絵もそんな生活を実践しようと試みるが、sayoがすすめる竹のせいろやほうきはやっぱりどうも面倒で、「ていねいな暮らし」に疲れはじめていた。
そこで目に留まったのが、〈おひとりさま専用カフェ 喫茶ドードー〉の看板だ。スパイシーなコーヒーと風変わりな店の雰囲気にほっと心がなごんだ可絵には、これまで憧れていた「ていねいな暮らし」の、違う面が見えてくるのだが……。
〈喫茶ドードー〉に立ち寄るのは、職場で興味のある部門に配属されたばかりの若者、会社にも後輩にも気を配らねばならない50代のショップ店長、感染症の流行で仕事の仕方が変わってしまったヘアサロン勤務のスタイリストら、変化する社会の中で奮闘している女性たちだ。仕事は好きだし、がんばりたい。でも、ときには逃げ出したくなることもある──そうしてうつむいたときに目に入るのが、〈喫茶ドードー〉の、膝下くらいの高さの看板なのだ。彼女たちの悩みを癒すのは、店主そろりのどこかとぼけた雰囲気と、彼の供する料理である。
そろりは思うのです。
(※注:コーヒーは)すっきりとした味わいを好む人もいれば、ガツンと濃くなければ飲んだ気がしない、という人もいます。ミルクや砂糖なしでは飲めない、といったとしても呆れられることはないでしょう。美味しい、と感じれば、それがとびきりの逸品になる、と。
いつのまにか、世の中の「~しては?」が「~すべき」に思えてきたあなたが、今いちど自分を見つめ直せるメニューたち。こんな店にたどり着けるなら、たまにはうつむいてみるのも悪くない……かもしれない。
文=三田ゆき