東西/南北考: いくつもの日本へ (岩波新書 新赤版 700)
東西/南北考: いくつもの日本へ (岩波新書 新赤版 700) / 感想・レビュー
ヴェネツィア
柳田国男の「ひとつの日本」(一国民俗学)の意義は一応は認めつつも、この列島の文化的基盤を「いくつもの日本」に求める論考。柳田は、列島の辺縁(特にいえば琉球)に文化の古層が残ることから、言葉などの文化は都を出発点とし、他の地域に順次拡散していったとし、日本の文化は本質的には単一であると考えた(ただし北海道は除外された)。赤坂は、それは所詮は米作りを営む天皇制国家が形成された7世紀以降のことに過ぎず、列島の文化古層は、それよりも以前の縄文にあり、列島の北に豊かで独自の文化が存在したことを示すのである。
2021/11/17
鉄之助
日本人の根底にある3つの穢れ、死・出産(月経)・肉食、が1100年も前に定められた「延喜式」にあるとは、驚きだった。
2021/09/27
かんがく
少し古い本なので、「いくつもの日本」の視点は現在では既に浸透している気もする。一国民俗学を乗り越え、東西二元論から南北へと開いていく。「分かる」とは「分ける」ことだなと分解の重要性を改めて実感。
2021/06/23
うえ
再読。やっと著者の歴史への視点がわかってきた「次年子では、仙台あたりに行商にいくと、サンカと間違われて難儀した、「橋の下」と呼ばれ蔑まれた、といった話を聞く」「柳田語彙としての「北」は、漠然と、本州北辺の東北を指している。柳田にとって…津軽海峡のかなたは日本ではなかった。少なくとも、柳田が北海道を民俗学の領土と認めていなかったことだけは、あまりにあきらか」「方言に見られる東/西の境界が、列島の民族史それ自体に穿たれた裂け目と化してゆく可能性がある。柳田はまさに、それを危惧し、怖れ、忌避せんとしたのである」
2017/11/19
ハチアカデミー
B 木の杭を二本立てる。それだけで境界は発生する。いまある日本という国家の境界線はけして固有のものではなく、県境さえも与えられたボーダーに過ぎない。本書において赤坂憲雄が試みるのは、いまある日本・日本人という言説の解体であり、かつてあった多様な文化の掘り起こしである。北海道、沖縄といういわば極端な例だけでなく、東北一帯の中に存在する多様性を提示することで、日本・日本人という言葉の暴力性を暴く。生半可な日本論がしっぽを巻いて逃げるラディカルな一冊。稲作とケガレを論じる五章、蝦夷論の六章が特に印象に残る。
2012/10/15
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