悪について (岩波新書 新赤版 935)
悪について (岩波新書 新赤版 935) / 感想・レビュー
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2013.04.22(初読)中島義道著。 2013.04.22 (カバー) 残虐事件-「悪」をめぐる評論、喧しい。 「悪」を指弾する人自身の悪はどうか。 そもそも「悪」とは。 人の欲望を見据え、「悪」と取り組むカント。 カント倫理学を「悪」から読む。 (中島義道) 1946、福岡生まれ。 1977、東京大学大学院人文科学研究科修士修了、1983、ウィーン大学哲学博士。 (あとがき) 二十五年前、ウィーン、どうしよう、どうしよう、と・・・。 ベリヴェデーレ宮殿の庭園のベンチでカント『純粋理性批判』を読む。
2013/04/22
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2013.04.29(つづき)中島義道著。 2013.04.29 ◎善意志。 カントは、善の内容、すなわち、いかなるものが善であるかを提示しようとはしない=カント倫理学の本質。 次に、その正確な意味を盛り込もう。 『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)以下『基礎づけ』という。 この世界は、どこであろうと、いや、この世界以外でも無制限に善とみなしうるのは、善意志以外全く考えられない。『善意志』とは、「善いことをしよう」という思い-一定の心理状態ではない。
2013/04/29
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2013.05.10(つづき)中島義道著。 2013.05.08-2 カント、『基礎づけ』、『実践理性批判』において、定言命法を様々に定式化しているが、つまるところ次の2点である、(1)きみの意志の格律が常に、同時に普遍的立法の原理として、妥当しうるよう行為せよ、(2)きみ自身の人格における、また他の全ての人格における人間性を常に、同時に目的として使い、決して手段として使わないように行為せよ。
2013/05/10
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2013.04.26(つづき)中島義道著。 2013.04.24 カント倫理学にたいする拒絶反応はなくなった。 (はじめに) 幼児虐待。 あたかも自分はこういう悪とは全く無縁。 安全地帯にいるかのようである。 自分の中に悪を見ようとしない彼らは有罪である。 ここ数十年、自分自身をはじめ、誰一人として「善くはない」という鮮明な直観に支配されている。
2013/04/26
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2013.05.06(つづき)中島義道著。 2013.05.06 ◎道徳法則と定言命法。 カントは「道徳的に善い行為」=義務からの行為の客観的妥当性を確立しようとした。 ※客観的妥当性=「自然科学の法則のように、いつでも、どこでも、どんな場合でも必然的かつ普遍的に妥当しなければならない」という意味。 カントは、ここで、「道徳法則」という名前を採用した。 ※「法則」=「必然的かつ普遍的に妥当するという性格を含意いている」からである。
2013/05/06
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