見ることと見られること (岩波現代文庫 社会 157)
見ることと見られること (岩波現代文庫 社会 157) / 感想・レビュー
bouhito
人間は絶えず、誰かを見、あるいはハレの場面(結婚式など)では見られる喜びを感じる。筆者は「見ることと見られることの調和」の大切さを解く。その一例として、ポルノ映画を見る時に、映画館へ行くとなると映画館へ行く自分が「見られる」ことになるが、ビデオで済ませてしまえば(今で言えばネットで済ましてしまえば)「見られる」ことから自由になることができるという。しかし、「見られる」ことは一種の承認欲求を満たすことにもつながり、「見られない」ことはあらたなる欲求不満を生み出すことにもなりかねない。
2016/03/21
おぎゃ
読みやすくおもしろい文章多数。たとえばカメラが特権的な存在だっていう部分。記録映画は明治時代からあって、最初のほうは皇室関係のものが最も多いが、民衆は天皇に対して平伏してないといけないのに、カメラを触っている人間は立って皇族にカメラを向けることが許されてた、など。
2023/12/02
ぼや
「作者の主体性放棄」というのがすごく大事なことに思えた。作者が作りたいものの方に撮られる人を連れてくるのではなく、今存在する人の方に作者が寄っていくということかな?是枝監督の映画を見るとそんな感じがする。主体性を極限までなくしていくことそのものも作者の意図で、結果私達は作品から多様な印象を受けることができる。あるがままの状況に意味を見出だすのって、日本的な感じがする。映画の始まりは記録映画だったんだな。
2019/07/30
ながひさ
流し読み。時代を感じて最後まで読めなかった。。
2015/10/22
シマ
見ることと見られることへの、そのプロである高名な映画評論家のエッセイ。見る主体と見られる対象が逆転している。視線を意識することで私たちは自身を認識し、自己を形成する。つまり、見られることで主体となるといえる。逆に見るという行為は見惚れるや見守るなど、対象にとらわれることだから、主体性の放棄に近い。たとえとしてポルノがあげられている。かつては映画館へ行き他人の目を意識しながら観ていたが、ビデオでは、目的のシーンだけを見ることが可能となった。好みのシーンを選んでいるのだが、より強く対象に支配されているだけ。
2022/11/02
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