西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ (角川ソフィア文庫)
西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ (角川ソフィア文庫) / 感想・レビュー
壱萬参仟縁
来週の現社授業(倫理の江戸時代ぐらいからの単元)向け。西田の「純粋経験」概念は、当初から意志的・能動的なもの(26頁~)。『善の研究』で、最も端的に観念論的な立場が表明されている箇所☞「原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない」(38頁)。『善の研究』をBOOKOFFにあれば買ってよんでおきたい。デカルトの例の謂いで、「われ思う、ゆえに、われあり」は、「思う、ゆえに、思いあり」は、同じことをいっている(43頁)。デカルトと西田幾多郎のつながりも生徒には指摘してみよう。
2022/09/10
へくとぱすかる
何かを語るのに、それ以上深部に進めず、核心にたどりついたと思ったら、逆に包囲されていた、それも自分自身に、とでもいうしかないような構造になっているという理解でいいんだろうか。「私」を「場所」としてとらえることは、図柄の文様と地が逆転するルビンの壺みたいな発想だと思った。A系列・B系列は、まるで違うものなのに、現実の時間はどちらもありの、まさに矛盾の重ね合わせだと思える。基本的で単純なものこそ、語るのは困難。
2018/12/03
ころこ
著者の開闢の哲学を参照枠にしているので、注意が必要です。私界未分を突き詰めると、西田の境地は言語化できない。カントにあたるのが、今回は1章のデカルトです。2章では、例によってウィトゲンシュタインが登場します。東洋哲学っぽいウィトには、直接経験を分節化されていない音声で表すという段階があります。経験という言葉は意味を持ち得るのだと。西田は反対に、経験は言葉と独立に意味を持ち得る。著者は、西田が純粋経験の内部にそれ自体が言語を可能ならしめる構造があると考えて、西田哲学の本質を言語哲学だと展開させます。
2019/12/10
ころこ
一般的には、永井哲学がマインドフルネスといって仏教思想に接近しているのと、西田哲学は逆方向からの流れだと理解できる。しかし、西田哲学は仏教思想に淵源があるのではなく、西洋哲学を徹底化させることで接近していく。その解は永井哲学ということなのだ。永井哲学とは、言語化と、その思考の結果、朧げに判明する言語化の限界、そして更に形を変えた言語化による限界突破とやがて訪れる言語化の限界の繰り返しだ。西田哲学の言語化不可能の幾分かある否定的意味は、永井哲学によって肯定的意味に変換されている。
2023/02/21
ころこ
冒頭の『雪国』の冒頭にある文章が、ウィトゲンシュタインの幾何学的な目を持った<私>=世界となる視点と同じものだという着想から出発しています。画面のフレームの無い視点という比喩は、今回にこそあてはまります。「知即行」も意識を認めない分析哲学の議論に似ています。デカルトの私と西田の私も、『青色本』の「ウィトゲンシュタイン」<私>の議論と重なります。著者の西田理解によれば、直接的自己意識は各々が持っているため、主語の統一ではなく、「述語の統一」によってその視点は存在することになります。西田の言葉でいえば「純粋経
2019/01/24
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