内省と遡行 (講談社学術文庫 826)
内省と遡行 (講談社学術文庫 826) / 感想・レビュー
またの名
たとえばニーチェが言う力への意志を、中心を解体する概念だと定義し体系化するその作業それ自体を解体する絶え間ない移動のためのメタファーとして、動的なまま理解する試み。他にソシュールやマルクスも企てたと著者が述べるこの自己言及的・自己関係的・自己差異的な差異体系を探求していく最中で、しかし本書は今さらニーチェのように非凡に語ることはできないので凡庸な形式化を選ぶと繰り返し語る。「不徹底且つ曖昧な言説に止めをさすために、この不自由で貧しい道筋を積極的に選んだ」戦略は、後から振り返ると最も時代を制したかに見える。
2018/02/08
みのくま
一義的に閉じこめられた構造=《内部》から「巨大な多様性」、事実性、不在としての《外部》に脱出する為《内部》を徹底的に掘り下げる(=遡行)。つまり我々が自明視している(もしくは自明視すらしていない)深層を暴いていく訳だが、本書の後半において《外部》へと脱出する経路が閉ざされている事実に直面することになる。柄谷は《外部》をユートピアとして扱わなかった為に敗北したのだ。彼は《外部》をポジティブな実体とも詩的(ロマン)にも扱わなかった。ただただ知的格闘において探求していったのだ。まさに驚くべき敗北の記録であった。
2018/01/16
くらひで
ニーチェ、フッサール、ソシュール、ハイデッガー、フーコー、フロイト、マルクス、バルト・・・名だたる近現代の哲学者・思想家の足跡が網羅され、著者の解釈が加えられ、それなりの基礎知識を前提に取り掛からないと難解だ。著者自身の、それまでの「仕事の否定」、自省がなされ、自己の超越を試みる作品と位置づけられる。主体と客体の認識、内部と外部の錯綜がテーマとなっているが、偉人の言語、思想自体が客体として存在し、それを理解・認識する行為自体が自己の内部にあり、客体が自己の認識と同一する保証はない。要再読。
2016/04/05
OjohmbonX
ニーチェやソシュールやフロイトやマルクスが見せる、矛盾や断言の回避、非言及について、それを解消して整合を取ったり体系化すると彼らの何が見失われるか(そうした実際の試みとそれが何を見失ったか)が語られていく。形式体系は自己言及の禁止・排除によって成立するという事実を見ようとすることがその非整合性をもたらすという。柄谷行人自身『世界史の構造』周辺は体系的な仕事だけど、それ以前に体系化による隠蔽についてひたすら考えた運動を経た上でのことだという点を見落とすと、本当には読めないんだろうと思う。
2018/04/16
静かな生活
やっぱりこの時期の柄谷はすげえな…。〈不可能性〉についての言説が一周回って〈可能性〉の煌めきに結びつくエキサイティングなゲーム。ただし〈現在〉の柄谷の事を考えると、サブカル批評(東/ゼロ年代言説以後)で現代思想の門をくぐった身としては色々複雑な感情を抱く。しかし忘れ辛いこの煌めき…。
2020/02/28
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