隠喩としての建築 (講談社学術文庫 866)
隠喩としての建築 (講談社学術文庫 866) / 感想・レビュー
またの名
危機のたび厳密な思考の建築を打ち立てようとする西洋の知は、逆にいつも安定した建築がないことを露呈したのと同じく、隠喩を嫌い厳密な言語を求める者達こそが隠喩を深く考えたと見る著者。ここに潜む自己言及のパラドクスを近代国家にも認め、戦後日本はGHQの検閲の上に成立してるとの議論に対し、それが言うほど徹底もせずデタラメだった点に注目。「検閲官が明らかに無知かつ愚鈍で全く恣意的にやっているにもかかわらず、そして蚊の食った程の効果も生み出していない程の些細さにもかかわらず、だからこそそこに検閲者の意図が読まれ得る」
2018/03/16
くらひで
この世は矛盾に満ちている。何一つ完全なるものはない。例えば、論理で展開した数学が、ゲーデルの不完全性定理によって、その根底から崩壊する。マルクスの資本論も資本主義経済の矛盾を発く。「地」と「図」の反転のように、人間の認識、主体と客体とは簡単に入れ替わる。人間はある現象に意味付けを行うことによって、それが隠喩となって人間の意識を支配する。論理を積み上げることによって知を建築してきたと思い込んでいた現代が脆くも崩れ落ちる。ここにポストモダニズムがあるといえる。本書の言う「建築」は、一般的な意味でのそれではない
2015/04/22
なっぢ@断捨離実行中
表題作はトランスクリティークが出るまで海外では柄谷の代表作とされていたらしい。なんでも建築関係者の基本文献にまでなっていたとか。しかし中身は建築とは直接的には関係のない隠喩としての建築を、建築という言葉の現代的な意味を問う哲学的な議論になっている。現代思想の諸問題を門外漢が手っ取り早く学ぶ教科書として受容されていたのだろうか。
2017/07/09
引用
なんらかの時代を強烈に感じるテキストだった、こういうのがどう更新されているのか、それとも放って置かれているのか、自分の中の思想史的に位置づけてやらないと永遠に突発的な誤用と参照で終わるという気がする。しかしこれが建築学科の必読書だったというのは当時の学生があまりにもナーバスすぎると思う
2019/12/30
桜井晴也
「『人間は草だ』というメタフォリカルな表現は、『人間は草のようである』というのとどうちがうのだろうか。後者が聞き手や読み手になんらかの認識を与えるのに対して、前者は認識を要求するというところにある。しかも、それは最終的な解決をもっていない。このことは、『人間』や『草』という語の相互作用によって生じるのではない。メタフォリカルな言述の特性は、いわば、解決できないにもかかわらず解決を要求するというところにある。したがって、それはたんに言述のレベルではなく、コミュニケーションのレベルにおいてみられねばならない」
2015/01/14
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