探究(1) (講談社学術文庫 1015)
探究(1) (講談社学術文庫 1015) / 感想・レビュー
踊る猫
柄谷行人を読むと、確かに何かつかめたような気持ちになる。でも、それははかなく終わる。たぶん柄谷行人は(坂口安吾やウィトゲンシュタインと同じで)「考えるヒント」を出す性格を保持しているのだろう。彼の思考が忠実にヴィヴィッドにトレースされたこの本を読むとそうした「ヒント」をつかめて、たしかに何かを得られたように思える。だが、それは「ヒント」にすぎない。そこから単独者として何か自分の哲学なり文学なりを始める存在は他でもない、柄谷のテクストを読んでしまった自分なのだ。その主体性を再確認して読んでこそ味が出る1冊だ
2023/09/06
ころこ
以前読んだときに、もっと一文一文こだわって読み、フッサールだ、デカルトだとその都度詰まっていたものです。コミュニケーションの重要性を突き詰めると、その不可能性から思考せざるを得ない。ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の前半にある石工の親方と弟子の喩えから引いてきています。なぜコミュニケーションが重要かというと、誰もが知っている積極的な一律の効用よりも、偶発性によって生み出される剰余に創造性をみているからです。そこで、マルクスの商品交換とその剰余(贈与)が出てくる。重要人物はこの二人だけです。尚、著者はウィ
2020/12/30
踊る猫
ウィトゲンシュタインをこれまで(わかるわけがないにせよ)読み進めてきた1人の読者として、ここで開陳される柄谷の読みを興味深く受け取る。柄谷はここで、言葉を介してぼくたちが行っているコミュニケーションを自壊する地点まで煮詰めて「人はたんに喋っている」「そこから事後的に意味が見出される」と説いているように映る。そうしたコミュニケーションの「交通」の奇跡・偶発性とは、しかし言ってみれば「あたりまえ」なものだ。そんなこと考えなくても生きていける……だが、柄谷もウィトゲンシュタインと同じくそこでつまづく人物のようだ
2024/06/01
踊る猫
ずっと柄谷行人を誤解していたのかもしれない。カントの「物自体」という、私たちの認識しえない存在を作り出して整理する思考を批判して「他者がいない」と語るところにショックを受けた。「神」や「他者」といった人知を超えた存在を「それはそれとして」「そういうのがある」と片づけるのではなく、具体的な手触りを確かめようとする。だからコミュニケーションにこだわる。「ウィトゲンシュタインはいいこと言ってるな……」という軽いエッセイとして書き始められたはずの『探究』が、かくも繰り広げられて「論考」になるとは。実にスリリングだ
2020/06/29
chanvesa
「私に言えることは万人にいえると考えるような考え方が、独我論なのである。独我論を批判するためには、他者を、あるいは、異質な言語ゲームに属する他者とのコミュニケーションを導入するほかない。」(12頁)、「ウィトゲンシュタインは、≪他者≫を、『われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人』とみなしている。」(49頁)。「教える」ー「学ぶ」という意志的な関係、極論で言えばヘレン・ケラーとサリヴァン先生が水という言葉を知る有名なプロセスまでが他者との関係かもしれない。これは相当な覚悟が必要な関係性であろう。
2018/09/13
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