ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫)
ヒューモアとしての唯物論 (講談社学術文庫) / 感想・レビュー
またの名
無力な自分を蔑視することでその力を誇らしげに示すイロニーが他人を不快にするのに対し、なぜか他人をも解放する超越論的な唯物論がヒューモアだとの説明は、要するに不快をまき散らす人間か否かという話ではないと思う(気がする。多分)。現代思想と日本思想・文学に独特の指摘を加える所収の諸論考を通じて、仏思想家に好まれるも知的道徳的原理がまったく無く不都合なことは責任転嫁する美しいだけの国日本の謎が浮上。伊藤仁斎論で堅固な原理を持たない社会の起源を古代ではなく江戸とし、ポスモダに対しては早くも見切りをつける特異な批評。
2018/03/23
静かな生活
改めて柄谷の文体のような極度に高度で抽象的なものが「批評」一般として親しまれた事実がスゴい。そしていま振り返るとこれにくっついている東浩紀の解説がおもしろく、また奇妙。
2021/12/22
amanon
理解の程は甚だ怪しいけれど、とりあえず刺激的な論文集であるということだけは把握できた。ただ、本書を読んで著者柄谷が目指す物が一体何なのか?ということが改めて気になった。そもそも学部が英文科で、最終学歴は経済科院。文芸評論家ということで世に知られ、現在は哲学者を名乗っているという経歴が今更ながらに奇異に感じられる。そしてその訳の分から無さが本書の基底をなしているという事実に著者の特異な立場を改めて確認させられた次第。それから何かと否定的な評価を下しながらも、常に吉本隆明を意識していたということを再確認。
2014/09/19
桜井晴也
「驚くべきことは、ソクラテス、ブッダ、イエスといった連中がそろって書かなかったということである。それは、同時代に書く習慣がなかったからではないし、哲学的思想や体系がなかったからではない。彼らが書かなかったのは、書くこと(一般的他者に向かうこと)によって消滅してしまわざるをえない事柄を見出したからである。」
2013/03/19
yoyogi kazuo
吉本隆明についてのまわりくどい批判が唯一興味を持って読めたが結局何が言いたいのかよく分からなかった。この人の言う<外部>とは要するに何なのか。内面化できないもの、という定義でよいのか。そういう概念を殊更に重視してそれを基準に他の思想家を批判するのは自由だが、このときの柄谷と後年の(今の)柄谷の「態度変更」はどう説明するのか。NAMについてもそうだがこの人はいつもやりっぱなし、言いっぱなしで総括がない。
2024/06/28
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