死霊(1) (講談社文芸文庫 はJ 1)
死霊(1) (講談社文芸文庫 はJ 1) / 感想・レビュー
藤月はな(灯れ松明の火)
再読。『死霊』とは埴谷雄高版ドフトエフスキーへの献呈作だったのかもしれない。不快という感情から初めて「世界」を知覚していく事や無垢故の残虐や罪への傍観は許されるのかが対話や挿話を通して炸裂していく。それは自我への証明だ。しかし、日常の垢に塗れて生活する今となっては(『白痴』でのエリザヴェータ夫人に相当するだろう)津田夫人が男性たちの取り止めがない自己への証明論へ憤慨する様も分からんでもない。ラストの霧の中に影の余韻が残るかのような光景も矢張り、忘れがたい。自我とは翳の上に薄く、あるもう一つの翳のような物か
2024/07/18
佐島楓
学校の課題図書。観念的すぎて筋がわからない。というか筋があるのかないのかもわからない・・・。読了後解説本を読んで補うしかないですね。Ⅱ巻目へ。
2017/03/19
ころこ
実務力と実行力に乏しいが、自意識だけが肥大して妄想ばかりが先行する。もどかしさが溜まる自分と社会の関係が敵対的にみえるのは誰しも起こり得ることであり、時として社会に対する正当なアプローチの原動力になることがある。しかし、若者の中には絶対的な矛盾だと観念的に思い込み、性急に処理しようとして失敗する。「私は私である、という表白は、如何に怖ろしく忌まわしい不快に支えられていることだろう!」はカントの分析判断と総合判断から存在論を導出しており、男の子がいかにも好きそうな文章だ。意匠が陳腐で今読むと古色蒼然としてい
2024/10/02
chanvesa
高校生の時に見たETV特集以来、文庫化されてから数回、第一巻の途中で挫折したが、今回何とか読み終えた。「虚体」「自同律の不快」と言ったアンチノミーはテーゼとして呻かれる。思想、思索はこれから先、展開がある状態で第三章が閉じられている気がする。ETV特集でも、夢へのこだわりについて埴谷さんが語っていた記憶があるが、第三章の終わりの描写は夢に出てきそうな雰囲気だ。でも全般的にモノトーンだし、十二支の時計とか、首猛夫、総じて無気味な印象だ。三輪与志の存在の苦悩は理性における理解を越え、感覚的である気もする。
2015/01/09
傘緑
「…考えられる凡てを考えるのさ。それが青春時代の特徴だが……考えてはならぬ考えにはまりこむことが最も魅惑的なのだよ」 埴谷雄高のすべては『不合理ゆえに吾信ず』のバリエーションだと妄想している私にとって、『死霊』は埴谷雄高という謎の最大の注釈本であり、ドストエフスキーの『罪と罰』や神林長平の『七胴落とし』と並ぶ、青春という傷みの死と鎮魂を描いた青春小説である(そのため最後が「誕生日おめでとう」)。そしてねんねと筒袖、高志の報われない愛の間を揺れ動く、ひとつの愛のはじまりを歌う恋愛小説だとも妄想する。ぷふい。
2016/09/14
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