坂口安吾と中上健次 (講談社文芸文庫)
坂口安吾と中上健次 (講談社文芸文庫) / 感想・レビュー
ころこ
純文学の定義が批評との関係においてなされるのであれば、中上と柄谷の関係は最良で最大のものなのではないか。逆説的で意地悪な言い方にはなるが、中上の小説は柄谷の評価なしにはここまで評価されなかったし、死後これだけ読まれることもなかっただろう。作家が死後も読み継がれる条件は、誰かが言及することだからだ。中上の小説は柄谷の批評を受けて、はじめて完成する。柄谷の批評も、後期の政治的な贈与論よりも文学の方が複雑なコンテクストが織り込まれるから、前期の文学を読まなければ、中期の復活を経て、後期も本当のところ分からない。
2023/04/20
Happy Like a Honeybee
作家にとって作品とは書くのみではなく、作品とまた生きることだ(坂口安吾) 中上健次にとって最大の理解者であった柄谷氏の書評。 安吾と中上を中心に大江健三郎氏や漱石について言及する内容。 自分たちの筆では食べていけない、日本文芸協会の態度は自己欺瞞。
2019/10/16
OjohmbonX
柄谷行人による中上健次への追悼に感動してるからって、感傷に堕しているなんて言われたくない。小説家やその作品として語ってきたのと同じやり方で、その括弧を突然捨て去って、人間としてどういう関係を周囲や世界に、何よりこの自分に与えて存在していたかを語るという、態度の一貫性と唯一許した特別さに感動してるんだ。この人が「『天才』という言葉を、私は中上健次にだけは使いたい。」と言う時、どういう意味で使い得るのかを明らかにした上で使う一貫した態度と、この言葉を唯一中上にだけは使うことを自分に許した特別さのことだよ。
2012/12/24
兵頭 浩佑
読後、突出した思いがわく。辛いのだ。読むのが辛い。 まず、安吾と中上という二人の作家の境界を我々に宣言している、この本の名前からして辛い。 読んでみればいい。如何に安吾"で"/"によって"考え、中上"と"/"によって"考えていたのか。仮に、その内実には手が届かぬ事があったとしても、その動機、あるいはもっと率直に、その心情だけは誰にでも読めば伝わってしまうのではないか。 そうだとすれば、そもそもこれは批評であるのか。その事自体がまず問われなければならない。それが、あなたの言う「文学」だったのかと。
2019/02/02
e.s.
中上健次の小説を読むのは難しい。それは、何も難解だから、というのではなく、読解が数多くの記号的クリシェで覆われてしまうからだ。中上の小説をクリシェの集合へと解消してしまうのは、80-90年代文化(バブル的消費!)の端的な表れとも言える。柄谷が言うように、中上自身もそうしたクリシェの生産に加担していた。それに対し、我々は、中上の小説の只中で、秋幸のように「違う」と言い続けるしかない。
2015/09/29
感想・レビューをもっと見る