現代日本の批評 2001-2016
現代日本の批評 2001-2016 / 感想・レビュー
柳田
佐々木敦が最初の論考で『ニッポンの思想』は「日本現代思想史」だと書いていたのを引いて話を始めているが、こういう仕事は必要なんだろうなとは思った。「東浩紀一人勝ち」が望ましくないというのもまあそういうものかなと思った。が、それを批判できるのはそれなりに大きい仕事をしている人だけなんじゃないかという印象はあり、東浩紀は博論も書いているけれども。それに、ここで引き合いに出されるのはもっぱら売れた本だが、よくわからないのは売れた本というのはそんなに偉いのかということで、いやもちろん、売れて読まれる本というのは、→
2018/05/27
oz
初読。戦後は文学そのものの力が弱まり、純文学と大衆文学のという区分も失効した。批評と文芸批評がイコールで結ばれた時代も終わり、批評はアニメからウェブコンテンツまであらゆるジャンルに拡大した。縮小した文芸批評には他ジャンルの書き手が流入し、かつて批評家が論じなかった領域に批評家の手によらない批評が展開された。この流れに乗じたニューアカデミズムもアカデミズムに回収され、いまや評論の公募新人賞も消失した。「何でも」批評の対象となりうる状況が産んだものは「何をも」批評する必要がないことと差がなかった。
2018/08/31
カイロス時間
(承前)先人たちの歩みを辿るとき、不明瞭だった知が像を結び、知と知がつながって一筋の流れを成し、流れは別所に蓄えられていた他の知を直撃し、あるいは掠めることで知の骨格を揺さぶり、新しい知と古い知がカチカチと音を立てて組み合わさり、そうして知の組成が変容していく。その過程に私は息が詰まりそうになり、しかしあくまで幸福である。批評の歴史の大きな佇まいを見た気がするからだ。だがその広い背中は今、実存主義や現場志向に隠されてしまったと東たちは言う。前世代への単純な回帰は禁止されている。批評の再起動はいかにあるか?
2019/09/14
カイロス時間
シリーズ2冊を通して読む、すると「批評とは何か」が浮かび上がってくる。それは一つには、批評史の各時代に位置づけられた批評たちの意義であり、また一つには、これからのあり得べき、しかし未だ見ない新しい批評の姿である。そして批評が何らかのメディアに乗って届くものである以上、「批評とは何か」には「メディアは如何に在るか」という観点が必然的に含まれてくる。だから批評史はメディア史と並行して検証され、その未来もまた合わせて思考される。その議論を追うことは、思想・文学・社会を自ら分析する際の視点を得ることにもつながる。
2019/08/05
hasegawa noboru
読む側としても確実に説教おじさん風人生論者の古い世代になってしまったのを実感。〈いま若手論者と呼ばれ注目されているひとは、本質的に保守です。〉〈保守は目的も出口もはっきりしている。平たく言ってしまえば、権力を取り、金を稼ぐことがゴールです〉(東)
2018/03/10
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