さようなら、私の本よ! (講談社文庫 お 2-20)
さようなら、私の本よ! (講談社文庫 お 2-20) / 感想・レビュー
ハチアカデミー
大江自ら「後期の作品」と名付けた「おかしな二人組」最終編。その締めくくりは、老人の愚行(夢想)に相応しいテロリズム小説である。解説で町田康が「内容ももはや自由な後期の仕事」と締めた通り、主題やメッセージなど度外視した滅茶苦茶な作品。自分の別荘に親族で同年代の建築家と生活を始め、やがて彼が持ち出した計画に共犯者として関わる。その計画は、国家の持つ暴力にあらがうための、個人的な暴力を広めるため、自らの別荘を爆破する「アンビルド」であり、それを作品化する「ロバンソン小説」(セリーヌ!)の執筆という愚行って!
2013/09/29
belier
大江後期作品を読むために、読んでなかった大江の小説を古いものから読んだのがこの作品では特に報われた。題名が暗示するように、自己の作品への言及がいつもに増して甚だしかった。あとドストエフスキー「悪霊」「白痴」論にもついていけた。セリーヌ未読なのは残念。エリオットなどの詩は引用部分だけでいいだろう。小説としては、解説で町田康が書いているように自由すぎる。こんなの荒唐無稽すぎてあり得ないと読者に呆れられるのも構わないというストーリー展開。それなのに後半はさすがと言おうか、文学っていいなと多幸感に浸れたのだった。
2021/12/07
井蛙
作中の「ミシマ計画」の根本的な欠陥については『奔馬』の中で三島自身が示唆しているのに、それを大江が無視しているのはなぜだろう。作者の生と作品を混同することは確かに危険だが、ひとたび死を射程に捉えると両者はけして切り離し得ないものであるようにも思うのだが。そういうわけでこの作品は『奔馬』と奇妙に軌を一にしながら展開してゆく。そこでは若者は敢然と死に、死について喋々する老人だけが生き残る。あたかも「おかしな二人組」とはけして死なない老人と夭折を運命づけられた若者のことを云うようだ。死に怯え続け、ために長寿を→
2019/09/08
あかつや
再読。三部作完結編。前回の事故で死の淵から蘇った作家・長江古義人は、帰国した幼なじみの建築家・椿繁と北軽の別荘で共同生活を送ることに。そこで繁は古義人のリハビリとしてある計画を考えていた。面白さで言えば断然前作。でもドン・キホーテと同じように大冒険の結果大きなダメージを負い、しかしドン・キホーテのようには死ねなかった古義人がその後の人生を送るってとこに意味があると思う。ドン・キホーテだって死の床で正気に戻ったその後に奇跡的に生還したら、きっとこの本の古義人みたいなしょぼくれた余生があったんじゃないかな。
2022/11/12
kentaro mori
なんといかがわしく、扇動的な小説なのか、、、●ぼくのやってることは、なんらかの出来事以前に、微細な前兆を集めてゆくものなんだ。それらの集積の向こうに、取りかえしのつかない・後戻りできない、壊れてしまう方向への、道が延びている。昭和前期の日本の、その筋道をフォローする本なら幾らでも見てきたね、シゲもぼくも。ぼくが書いている「徴候」は、世界規模で、その筋道をあらかじめ跡付けて行ってるものだ。
2022/05/03
感想・レビューをもっと見る