日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫 かB 8)
日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫 かB 8) / 感想・レビュー
ころこ
冒頭で漱石が引かれているように、いわゆる「文学とは何か」に属する系譜にあるといわれています。が、それらと決定的に違うのは、文学を外部から規定しようとしているところにあります。読んでみると「文学とは何か」よりも、むしろフーコーのアルケオロジーに近い印象を受けます。言うまでも無く、ヨーロッパでも近代文学は論じられていますが、日本において決定的に異なるのは、明治維新により西洋近代を導入したように、近代人の思考のフォーマットとして近代文学が人工的に制度として導入されたことにあります。現在の我々は、その西洋近代およ
2020/08/03
しゅん
本書は同じ主張を繰り返している。「日本における文学は「内面」という人工概念を「自然」とみなすことで発展した」ということだ。「内面」は自明のものではなく、西洋において歴史的に作られた制度である。内面や心を当然あるものとして普段受け入れている人間(自分も含む)にはにわかに受け入れがたいが、柄谷はフーコーの分析などを要に断言する。「風景」も「児童」も、「内面」を反映できるものとして発見された。こうした議論の根幹には、言葉が内面を作ってしまうという現象への切実な興味がある。故に、議題は「小説」の枠を超えている。
2021/12/17
長谷川透
何を持って起源とするのか、本書は明確に指差しているわけではない。一人の作家の登場が起源でもなければ何かの文学的なムーブメントを以て起源とするわけではない。維新以降の文言一致文体の興りは、近代文学の起源のきっかけにはなったろうが、文言一致に明確なルールがあったわけではなく、作家は手探りで文言一致文体を獲得していたと言うから面白い。『日本近代短編小説選-明治篇1』などを改めて読んでみると確かに文体に四苦八苦している様子が読み取れる。勿論、文体以外の観点からも起源を探る試みが為されており、目から鱗の連発だった。
2013/04/10
瓜坊
近代の「制度」によって生まれた、対象化される風景や児童、内面、文学の深さ、これらが自明なものになるとその起源は忘れ去られる。さらにそれを忘れた上での論争や批判、たとえば「児童文学にほんとうの児童が描かれるか」なんて議論はより一層起源を覆い隠してしまうだけでなく、制度そのものを強固に補完することになる。近代以降の人間に内面が生まれたから内面が描けたのではなく、告白という制度や言文一致体という文体の創出によって生まれてくるものが今我々が考えるような「内面」であり、こういった認識の転倒を解かなければならない。
2018/03/06
anarchy_in_oita
文学・風景・内面・児童…私たちはこれらの言葉を所与として存在する実体として受け取り、決してその歴史性に目を向けることはない。心身二元論で「ココロ」が優越しようが「カラダ」が優越しようがどちらでもよろしい。問題はこの対立を打ち立てる制度そのものである。今まで素朴に上記概念の存在を信じて生きてきた自分にとって、本書を読み進めることはそのまま脳みその中身が書き換えられるような刺激的な体験であった。抜群に面白かったし間違いなく個人的2020上半期ベスト。次は探求1・2でも読んでみるか…
2020/07/11
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