一、ニ、三、死、今日を生きよう! ―成田参拝―
一、ニ、三、死、今日を生きよう! ―成田参拝― / 感想・レビュー
ホレイシア
生きていくというのは時にはとても辛いことだから、特に弱い人間達は・・・って「ポーの一族」の中の大好きなセリフではあるのだが、現実はそんな生易しいものではないんだよっ、という気分のときのために残しておいた1冊、遂に読んじゃったよ。笙野頼子氏の文章の勢いには力をもらうことが多い。朝1回飲めば夜まで効果が持続する。ちゃんと印税払って買うだけの価値があるのです。
2009/09/10
kenitirokikuti
図書館にて。再読。昨年から年譜をそばに置いて笙野頼子の作品を秩序立てて読み直している。笙野は1956(昭和三十一)年生まれで、20世紀前半に父母や祖父母の代には大きな資産があった。やっぱ70年代に親から医学部に進むよう望まれるのは並ではないだろう。笙野が不幸だったのは、病身のギフテッドだったことだろう。慢性的な苦しみから一時的に自由になるため過集中して解離的になる。まぁ、これは私も少しそうだからそう思うだけといえばそうなるけども
2023/10/08
あ げ こ
愛猫の死によってわかったこと。突然悟った自らの命日、間近に迫った死に錯綜する思考。死にかけた瞬間に見えた、敵の姿。掴んだ実体、気付いたその名前。価値ある生還後、信仰はより自らに合った形へと、もりもり強化されていく。訪れた成田において、闘い続けるものたちとの邂逅が呼び寄せた幻覚は、現実を打ち砕く破壊力を備えたものではない。あくまでも控え目な共鳴の現れに過ぎないためか。全体を通して、多少の息苦しさが残る。だが言葉に脈打つ魂は、闘い続ける作者自身の生そのもの。自由を知り、自由に在る言葉の晴れやかさが印象的。
2014/05/22
rinakko
再読。概ね単行本の刊行順に読み返しているが、「成田参拝」の初出は2003年とあり、成田を知ったのを機に個人の信仰とは何かと考えたこと、長篇『金毘羅』へと至るその覚醒の流れについて辿ることが出来る。“私にとって愚民でないという事は常に狂気と向かい合う事だ。或いは愚民である自分を自覚する事だ。そのふたつの間を行き来して生きることだ。だって、――。
2019/11/13
川上
さあ、毒書の時間ですよ。挑む気持ちが無いと到底読むことが出来ない。そこまでしてなぜ読むのか、そりゃあ面白いからですよ。遺恨怨念のこもった言魂が胸にザクザクと突き刺さることにある種の快感を覚えます。身体が摩耗すればするほどに言葉の力が増し、展開にもキレが出てきています。文章が否、笙野さんが此岸と彼岸を行き来するので、こちとらヒヤヒヤもんですぞ。残り50ページほどで本がパックリ割れたのは何かを暗示しているのか、こんなの初めて。
2015/02/11
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