身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫)
身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫) / 感想・レビュー
扉のこちら側
2016年1131冊め。ドイツ・オーストリア・チェコの教会や墓地、納骨堂を巡って宗教観に基づく埋葬や葬礼について考察する。表紙はウィーン最古の精神病院Narrenturm。現在は国立病理解剖学博物館の一部で、一階が写真のようなムラージュや病理標本が展示されている。本書の冒頭で驚かされたのがハプスブルク家の心臓分納で、2000年代になっても心臓と遺体は別に棺に納められているとのこと。デカルトの心臓二元論との関わりだとか、埋葬や葬礼についての考え方が興味深かった。
2016/12/23
yumiko
心臓信仰や埋葬儀礼から欧州の死生観、社会における心身論を辿る旅…とはいえ、それはちょっと表向き。実際は養老先生の自由な発想の赴くまま、結論よりもそこに辿り着くまでのあれやこれやを共に楽しむ一冊と言えるかもしれない。ウイーン、プラハと巡る「陽気な墓参りツアー」はとても興味深く、ユダヤ論に関しては推薦の本を是非手に取ろうと思った。養老先生の思考の迷路を一緒に探求したことで、普段と違う頭の回路を使ったよう。続くラテン国家編も楽しみにしたい。
2017/04/14
アキ・ラメーテ@家捨亭半為飯
ドイツ・オーストリア・チェコの教会、礼拝堂、墓を巡る旅。引用>> まず第一に、一人称の死体は存在しない。自分の死体というのは「ない」。自分の死体が生じたときには、それを見る自分がいない。/ 二人称はなかなか死体にならない。その人だとわかる部分が残存する限り、それはその人そのものなのである。自分の親の死体を指して「死体」と表現する人はいない。/ 死体が人称変化するということは、死体は「客観的事実」などではなく、人そのものだということである。
2017/02/07
Mayuzumi
ハプスブルクの埋葬儀礼。亡骸から内臓を取り出し、心臓とそれ以外とに腑分けして三箇所に納める。殊に心臓は重視され、銀製の杯に入れられる。土葬とは、死後も己の身体と向き合うことである。皇帝廟、カタコンベ、ナレントゥルムの蠟模型。死にも階級やファッションがある、我々は燃やされ骨片にされて、まとめて壺に突っ込まれるところから、彼岸の新生活に画一化された印象を抱きがちである。欧州の三つの身体は、こういった死へのアンチテーゼになる。「畜生 歴史を黙らせろ 沈黙にはもう少し人間性と尊厳があるべきだ」(劉暁波)
2017/11/28
canacona
養老先生のゆるゆるお墓巡りの旅。たまたま著名人のお墓を見ることはあっても、お墓をメインに巡ろうとはなかなか思わない。ハプスブルク家の心臓だけが埋葬された礼拝堂。その他2箇所に分けて埋葬されるらしい。遺体そのものを分割することに驚いた。骸骨を礼拝堂の装飾にしたりと、死者に対する感覚が随分違う。メメントモリを思い出していたら、解説でもこのことについて書かれていた。日本では死は穢れで日常から切り離されると養老先生は考えていたけど、仏壇を家に構えて節目節目に供養するのは、十分生活の一部に組み込まれてると思いました
2023/11/28
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