母性のディストピア I 接触篇 (ハヤカワ文庫JA)
母性のディストピア I 接触篇 (ハヤカワ文庫JA) / 感想・レビュー
ころこ
ゼロ年代批評っぽく冒頭の煽り文を書くセンスが根本的に合わないと感じでしまいます。要は自分を確かめるための文章ですが、著者の自己愛がこう叫んでいる様に聞こえます。「母さんなんて、ぼくのこと何も分かってないじゃないか!」この後、自ら展開される議論から批判されるようなことを不用意に書く必要があるのでしょうか。さて、本作は社会反映論です。①サブカルのコンテンツを批評し、②日本社会を論じるのですが、第1章が①で、第2章以降は①ということになります。①における目配りの広さ、言及の仕方はサブカル批評では最も読み易く、お
2021/11/24
鳩羽
宮崎駿、富野由悠季、押井守といった日本アニメーションの巨人達が表現しようとし、ぶつかってきた困難について論じることで、現代日本の「政治と文学」「公と私」の分断から生じた個人の苦しみや社会の機能不全を明らかにできないか試みている。虚構でしか描けない現実を、個人にまで届かせるにはアニメは適したメディアだったろうが、大きな物語が通用しなくなったときから、遅かれ早かれアニメでも公を映す現実を全体に向けて伝えきれなくなるのでは。母性という言葉の使われ方や成長モデルが少年限定なところなど、一般化できるだろうか。
2019/08/07
うさみP
意図したものしか出ない二次元の可能性から現実を捉える。戦後という大きな物語の喪失(社会的な自己実現)を失った現実に対して。少年のまま羊水の中で空に飛び、ユートピアという綺麗な嘘をつき続ける宮崎駿。宇宙世紀という嘘史の中で、家庭的なモノからの超越(新しい関連性)を模索しながら、天才的先見性と時代の要請故に「母なるニュータイプ」の重力に縛られ、虚構だからこそ描くことのできる現実を選んだ富野由悠季。「ニュータイプ」を一新した「ニュータイプ」。富野監督には百合作品を描いてほしい。Gレコどうなるのかなぁ・・・。
2019/07/25
左手爆弾
過去に憧れ、過去に縛られ、過去に怒っている、そんなしょうもない批評。以下、容赦なく書く。なんというか、宇野常廣という批評家が「まるで成長していない」ことを感じてしまい、言ってしまえば悲しい気分になった。現代日本を憂うポーズをしているのだが、具体的にどういうことが問題と感じているのかはよくわからない。やたらと強い言葉を使って断言する箇所に限って、根拠は乏しい。論じようとしている問題の範囲や視座が狭すぎる。構成などもあまり練られておらず、言いたいことをどんどん話しているな、という印象。
2020/09/16
roku7777
これは単なるサブカルチャー批評でない。ここにあるのはサブカルチャーを通じ「現代」を照射することだ。上巻では宮崎駿、冨野(ガンダムの人ね)を俎上にあげて我々はいかに「父権」的なものと「母性」的なものをただ単に「行き来」しているかを書く。僕は批評としてはジル・ドゥルーズがアンチ・オイディプスで、あるいはフロムが自由からの逃走で描いていることと変わりないと感じながらも、そこの呪縛からはいかに私たちは逃げることができないかも教えてくれる。そこにあるのはある種の「無力感」かもしれない。でも宇野は足掻く。下巻へ。
2020/07/02
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