アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18)
アルベール・カミュ (1) カリギュラ (ハヤカワ演劇文庫 18) / 感想・レビュー
夜間飛行
ムルソーが小説の主人公なら、カリギュラはいかにも劇の主人公である。彼は恋人に宣言する…人は死すべき存在ゆえ我は自由を試みるのだと、今日を境にわが自由に限界なしと。つまり王として自由と絶望を一手に引き受け、人を次々殺すというわけだ。人間に塵ほどの価値も認めず、愛も友情も踏み潰して走る一個の機械たらんとする彼は、貴族たちを嘲笑う。何という強烈な意志だろう。だがケレア、セゾニアら彼と真剣に向き合う人々がいなければ劇も対話も成立しない。カリギュラよ、やっぱりお前は人間なしには何もできないのだ。そこが何とも哀しい。
2014/09/30
絹恵
月に手を伸ばすカリギュラの横顔は、きっと悲しみの色を映していたと思います。そして自由を手にするために彼は、幸福を手放しました。それならこの世に真実はないというこの世の真実を、全ての夜に優しく溶かし込むことが出来たらいいのに。罪無き人は美しいと言う、それでも軽蔑と尊敬のあいだで罪深き人を愛している。あぁ、すごく魅力的だった。(PSYCHO-PASS GENESIS 1より)
2015/05/19
スミス市松
「人は死ぬ、そして人は幸福ではない」事実とその苦悩すら忘却する人生の無意味さという極限的不条理に対して、カリギュラは自らが人類の「ペスト」、いわばもう一つの不条理となることで反逆する。〈人間〉を超越すべく権力と論理を追求した暴君の物語である。カリギュラの禍々しいニヒリズムに注目しがちだが、四人の側近がそれぞれに詩(シピオン)、愛(セゾニア)、忠誠(エリコン)、論理(ケレア)の側から皇帝に異を唱える言葉にもカミュの思想が反映されており、この台詞劇を総体的に捉えることで〈ある絶対〉への闘争の場が立ちあがる。
2018/09/20
三柴ゆよし
十年ぶりの再読。ひとりの男が言う。「人は死ぬ、そして人は幸福ではない」。どんなに栄華を誇ろうとも、死の不意打ちは逃れようもなく、愛は奪われ、月を手に入れることはかなわない。そうである以上、すべて人間は運命=不条理の前では平等ということになる。人は不条理に翻弄されると同時に、不条理そのものに肉薄することもできる。しかし、その行為にただのひとつでも不可能があった場合、それはやはり、彼は1というよりはまちがいなく0なのだ。殺すも0、殺されるも0である。カミュの戯曲において、カリギュラはまずもって認識の人である。
2018/10/12
胆石の騒めき
人は他人の犠牲の上に自由を獲得し、死があるからこそ生に意味があるという真理のもとに、自らの論理に従って行動するカリギュラ。世界の根源的不条理に対して戦うと書くと聞こえはいいが、その行動の犠牲者にとっては勿論カリギュラ自体が不条理そのもの。「神々と肩を並べるためには、神々と同じだけ残酷になればいい」と言うカリギュラは神を目指し、そして月を望むようになったのだろうか?このような犠牲を払わないと「人が真実の中で生きる」ことができないとすれば、「真実」を知ることなく「生きて、死ぬ」ことこそ幸せなのだと思う。
2018/06/03
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