百年の孤独 ニッポンの小説
百年の孤独 ニッポンの小説 / 感想・レビュー
ぐうぐう
小説家でなければ書け得ない、日本近代文学史の新たなる解読。まず高橋源一郎は、日本近代文学の誕生に立ち戻り、日本文学が何を得、何を捨てたのかの検証を行う。その検証の第一は、小説家としてのシンプルな疑問から始まる。それが帯にもある「根源的小説論」を導いていく。しかし、高橋のユニークなところは、その自らの疑問にすらも疑いを向ける点だ。それは結果的に、堂々巡りを引き起こす。そしてそのことを、高橋は恐れていない。その素直な、もしくは無邪気な姿勢が、だからこそ小説の力を、そして読むことの楽しさを発見していくのだ。
2011/03/19
hf
買ったのはもう2.3年前ではなかろうか、、たぶんバサラブックスで、、いや4.5年前かもしれない、高橋源一郎は『文学なんかこわくない』(1998)を京都にいたときに読んでそれを読んでることがやや気恥ずかしかった、武者小路実篤の引用が印象に残ってて武者小路はこの本(2007)でも、召喚されていた、猫田道子とともに。『ニッポンの小説』という題は内容に合っておらず、「小説で死(者)を描くことの困難について小説と詩の違いなどから述べる」内容と要約できるかも。3章の後半では内田樹『他者と死者』(2004.10)を引用
2021/01/03
;
高橋源一郎ほど(ニッポンの)小説を愛している人間はなかなかいないだろう。愛しているからこそ、彼は本書で今までの(ニッポンの)小説に欠けているものを検証し、それを補う方法を模索する。もちろん言葉を使って。最終的に何かが明確に示されるわけではないし、もしかしたら何もわからないままなのかもしれない。でも、ニッポンの小説家高橋源一郎の、小説に向き合う姿勢は非常に美しい。
2013/12/15
kuukazoo
いわゆるエンターテインメントとか娯楽のための小説の極北にある小説は、何なんだろう?何でこんなことを書くんだろう?とか、たまに不思議に思う。誰かとコミュニケートするために小説を書く。誰かを(何かを)理解するために小説を読む。ってもそれは簡単でも単純でもなく、逆にわかりにくくなってしまうことだったりもする。言葉という構造で掬い取ろうとしてもこぼれ落ちるものの何と多いことか。散文は詩と小説の間で引き裂かれながら踏みとどまるために自らを変容させればならなくて、時々わけの解らないものになってしまう、のかも。
2012/12/20
祐紀
なんというか、小説に絶望しているような、希望を持っているような、読んでいて叱れれている様な気分にも、励まされているような気分にも、兎に角なんというか、見えそうで見えない、そこにあるであろう、星の光と星そのもの(もうそこに無いかも知れない星)みたいな、そんなものに手を伸ばそうとする運動でしょうね。(言葉すら遠いし、近すぎる)
2011/03/27
感想・レビューをもっと見る