柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方
柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方 / 感想・レビュー
KAZOO
英文学の役者である柴田さんと日本の小説に詳しい高橋さんの対談でかなり面白く読ませてもらいました。対談ですがアメリカや日本のなどの文学について深い教養がにじみ出ている気がします。何度も読み返したくなります。このお二人がお勧めしている海外と日本の小説30選+αのリストは参考になります。また読みたい本が増えてしまいます。
2016/01/12
Yusuke Oga
ピンチョンは実はシャイな人間で、そのような弱くてエモーショナルで人間的で感じやすい部分を隠すために、ガラクタを積み上げるようにワザとああいう文章を書いていて、そういうふうにして読むとずっと魅力的だ、という発言に思わず赤線引いた。ワザ、ワザ。
2014/12/07
白義
小説というのは本来、極めて自由なものである。何を書いてもいいしどう訳しても読んでもいい、そうした根本的な自由により生成される領域としての小説。ところがその自由な小説すら、歴史や人が作り出した約束事、コードに拘束されるし、普段はそれは見えない。高橋源一郎も柴田元幸もそうしたコードの問題を極めて深く自覚し、格闘している作家と訳者であり、だから本書の対談も平易な言葉ながら小説の自由のかなり根源に近いところに迫っているように思える。現代日本の小説はいろいろな作法や様式が壊れているが、だから面白いという言葉には納得
2015/11/14
スミス市松
言葉のマジシャン高橋源一郎と言葉の技術屋である柴田元幸、二人の対照的な文学者による対談集。だが別の意味で、これは柴田の影に潜む「村上」をめぐる高橋源一郎の冒険とも言える。彼が説く「コードとしての小説の捉え方」は文学を歴史的文脈で理解するには有効だろうが、それが小説の捉え方のすべてではないし、むしろアタマでっかちでまわりくどいやり方ではないだろうか。もう少し身体で小説を考えることも必要だと思う。個人的には柴田の、各々の「アメリカ」という概念を求めて移動し続ける文学=アメリカ文学という言葉が腑に落ちた。
2010/12/21
訃報
いろいろと面白かったけど、一番共感したのは最後の方の「書いている時に『書いている自分』を無にしたい衝動がある」という話。意識で統制して書いていると、結局それは自分が自分という範囲の中で制限して書いたものに過ぎなくて、どこへも連れて行ってもらえない、書いたところで本物じゃないし、書くに足る新しい価値が見出せないという思いが僕にもずっとあって、その思いを共有してもらえたのはとても嬉しかった。僕は高橋源一郎の小説をあまり面白いと思ったことがないんだけど、それはこの人と自分の書き手としてのスタンスが似ていて、同じ
2016/06/19
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