襞:ライプニッツとバロック
襞:ライプニッツとバロック / 感想・レビュー
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ドゥルーズらしい奔放なレトリックで、ライプニッツとバロックの形式、さらにベルクソンやホワイトヘッドの哲学について、横断的かつアナクロニスティックに論じている。モナドは無限の逆数(1/∞)であり、神の公式は∞/1なのだなんて言われると、さすがにソーカル事件の象徴的意味あいを歓迎せざるをえない。とはいえこのアナロジー力が、ドゥルーズの驚異的な要約力と編集能力を支えてるのはまちがいない。最近ホワイトヘッド論を2冊読んだのだが、ドゥルーズがわずか2センテンスほどで要約している箇所の方がより有益におもえたくらい。
2017/05/02
ひばりん
難解な本だ。ライプニッツと襞とバロックという、少なくとも3つの重心を持っている上に、それらを語るドゥルーズの文体じたいが襞の様相を呈しているからだ。ミシェル・セールのライプニッツ論が引用されているが、おそらくドゥルーズはセール対して友情含みの対抗心を持っていただろう。ぐにゃぐにゃしたものを明晰に扱う学が位相幾何であり、セールはこちらの道を行った。しかしドゥルーズはぐにゃぐにゃしたものをぐにゃぐにゃのままに扱おうとする。本書を実践的に応用した美学書としてディディ=ユベルマン『ニンファ・モデルナ』がある。
2021/12/03
wadaya
ドゥルーズがこの本で最も気に入っている文は「今夜コンサートがある」だそうだ(笑)一貫して述語は主語の従属ではないと言っている。それは1/ ∞ の出来事であり我々が本質だと思っていた事さえも永遠ではないということだ。「モナド」を私的に解釈すると無限変化する襞を内摂した「世界」である。世界は魂と身体において二度折畳まれる。襞とは無限大と無限小から来る屈折であり、分裂し統合する。僕の言葉で言うと世界を認識するのは左右の脳の連携であり、それは一方の先行を補完する形で調和をもたらすということである。そして(続く)
2017/12/16
wadaya
再読。ドゥルーズ「襞」はライプニッツ論ではあるが、同時にホワイトヘッド論でもある。その系譜はプラトン→ライプニッツ→ホワイトヘッド→ドゥルーズへと見えない糸で結ばれているかのようである。知っていたわけではない。頭で考えるのではなく、気持ちの向くまま、自分の感覚だけを信じて哲学書を読んできた結果、浮かび上がるものがあったということである。ドゥルーズは世間的にはポストモダンなのだろうか?本人はそう思われるのを嫌ったようだが、もしドゥルーズをポストモダンと呼ぶのなら、私はポストモダンが好きだ。面白くて、→
2022/12/27
kana0202
序盤以降ほとんどわからなかったが、魅惑的な書物。ライプニッツ読まないと。「書物とは<事件>の襞」(56)「述語とは、『旅の実現』であり、一つの行為、運動、変化であり、旅するものの状態ではないのだ」(92)
2021/05/23
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