図説写真小史 (ちくま学芸文庫 ヘ 3-4)
図説写真小史 (ちくま学芸文庫 ヘ 3-4) / 感想・レビュー
翔亀
1931年著。創成期から100年間の写真史だが、その100年後の現在でも色褪せていない。多木浩二によると、「資料に遺漏がなく今日の写真論が言うべきことが出尽くしている」。絵画が宿していた一回性というアウラを崩壊させてしまう写真が、芸術の名のもとに、修整と言う形で人工的にアウラを付与させるという堕落の歴史。一方で、アジェやザンダーという「新しい眼差し」をもつ写真家が登場するというダイナミックな歴史。ファシズムのただ中で、政治に利用されるアウラに対抗する写真の可能性を、革命の文脈で語られていて大迫力だ。↓
2014/12/23
内島菫
ベンヤミンの言と異なるが、「アウラ」は写真や複製技術時代の芸術作品において凋落するのではなく、写真や複製技術によってうみ出されたもの(まで)も「アウラ」を纏うようになるため、芸術作品の「アウラ」が凋落したように見えてしまうということではないだろうか。今、本書に掲載されている写真を見ると、「アウラ」は壊れやすいものというより、逆につきやすいもののように思えてくる。しかも、写真に写された人も物も場所も今ではほとんどが失われてしまったという不在と死が、二重写しのように「アウラ」とともに立ち上ってくる
2020/04/15
空虚
①ベンヤミンは表題作のみ。アウグスト・ザンダー『時代の顔』に寄せられた、作家アルフレート・デーブリーンの序文が興味深い。デーブリーンに依れば、死は人の顔を「平板化」する。詩人、政治家、音楽家あるいは国王のデスマスク、それらは個別性を奪われた「静かな客体」であり「ひとかたまり」の顔である。デスマスクに現れるような匿名性は、なにも死者に特有ではない。特定の社会あるいは階層といった視点から人々を眺めるならば、群衆は匿名の集団となるだろう。距離は差異を消失させるのだ。
2016/03/08
misui
ベンヤミンの小論に図版と関連文章を加えたもの。図版と注があちこちに飛んで死ぬほど読みづらいが、技術の発展によるアウラの喪失を、当の写真を参照しながら眺められるのはありがたい。カメラは肉眼では捉えることのできない瞬間を捉えることができる。それは意識されない無意識の世界に通じているものであり、ここにおいて技術と呪術は接近する。その境界線は可変的で時代とともに写真の役割は変わっていくだろう……という感じ。
2015/05/14
T.Matsumoto
本論自体は短いが、論考で参照されている写真だけでなく、参照した作家の写真集の前文なども収録されており、丁寧な注釈と併せて、編者の心遣いが素晴らしい一冊です。写真に関する芸術論というよりは、「複製技術時代の芸術」に昇華される前段階の論考として読むといいのかもしれません。少し消化不良です。
2021/12/26
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