最後の親鸞 (ちくま学芸文庫 ヨ 1-6)
最後の親鸞 (ちくま学芸文庫 ヨ 1-6) / 感想・レビュー
i-miya
2013.02.15(つづき)吉本隆明著。 2013.02.14 念仏を称えても、嬉しい気持ちにならない、速やかに往生を遂げて、浄土へゆきたい、という気持ちにならない。 浄土がそんなによいところなら、これはおかしいことではないか。 それは、信心がたりないからそうなる、というのでは、そこらへんにある<宗教>とかわりがない。 応えは信心の強弱ではない。 これでは絶対他力の意趣に反する。 『観無量寿経』の中から、「下品」の「下生」のものへの着眼点があるはずだ。
2013/02/15
i-miya
2013.02.04(つづき)吉本隆明著。 2013.02.03 生きた親鸞を虚空に描いてみると、彼が密かに抱いたようなものを想定できそうに思えてくる。 法然と、その法弟にあたる聖覚や、隆寛の念仏思想の祖述者として振舞い、自己主張を決して流布しなかった。 念仏者としての日常の振る舞い。 教信-一介の捨て聖としての行動。 自戒をしていても、ひとりでに染み出て来た彼の思想。 この微妙な、捉えようのない親鸞の思想をうまく捉えたのが唯円『歎異抄』か。
2013/02/04
i-miya
2013.01.26(再読)吉本隆明著。 2013.01.26 (カバー) 親鸞の思想は、親鸞の直弟子たちの聞き書きなどにまとめられた言葉によって、死後、はるかな時間を経て、隔てて、しだいにその巨大な姿が現れてきた。 非僧非俗の境涯、その知の放棄の方法は? 宗教以外の方法では、思想が不可能であった時代。 仏教の信を極限にまで解体。 善悪の起源と、その了解について。 その思考の果てまで歩く。 吉本の全身的な思想の集注。
2013/01/26
i-miya
2013.01.31(つづき)吉本隆明著。 2013.01.31 (中沢新一、解説、つづき) ところが、本覚論では、その煩悩も涅槃(浄土)も同じ仏心から生み出されたものとして、本来は、一体である、とする。 この一元論主導者は源信(恵心僧都)である。 一元論は、さらに過激なものへと変貌しようとしていた。 二元論主導者もなんと、不可思議なことに同じ源信。 日本の仏教は、ここでインド発生の仏教思想を、内側から解体していく方向に踏み出した。
2013/01/31
i-miya
2013.01.29(つづき)吉本隆明著。 2013.01.29 この本の持つ解放力にはすさまじいものがあった。 一元的本覚論、二元的浄土思想。 平安から鎌倉時代にかけて、仏教は、解体のプロセスにあった。 天台教学。 本覚論=仏教思想の全体に通奏低音、のように流れている二元論を強力な一元論に組織しなおそうとする試み。 伝統的仏教-現世は、煩悩の潜在力が、生み出す幻想の世界として、否定すべきものであるとする。
2013/01/29
感想・レビューをもっと見る