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存在と無: 現象学的存在論の試み (2) (ちくま学芸文庫 サ 11-3)

存在と無: 現象学的存在論の試み (2) (ちくま学芸文庫 サ 11-3)

存在と無: 現象学的存在論の試み (2) (ちくま学芸文庫 サ 11-3)

作家
ジャン・ポール・サルトル
Jean‐Paul Sartre
松浪信三郎
出版社
筑摩書房
発売日
2007-12-10
ISBN
9784480091079
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存在と無: 現象学的存在論の試み (2) (ちくま学芸文庫 サ 11-3) / 感想・レビュー

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ソラヲ

「他者論」と聞いて「相手も自分と同じ対自として尊重しましょう」的な倫理学なのかと思いきや、寧ろ他者の「まなざし」のもとに他有化され即自に貶められないように自分も「まなざし」を相手に向け返してやれ、みたいな自由を巡る闘争の話だった。けっきょく羞恥や自負、すなわち即自であることを甘受している状態に止まり続けていては強くなれないということか……そして他有化からは決して逃れられないのだから、その承認に対して「私が」責任を持たなければならない、というところで初めて自由と責任が結びつく。Ⅲの前にハイデガーを読まねば。

2016/07/12

またの名

欲情中の人や欲情させる尻の動きを真面目に哲学する第二巻。サルトルによると誰かの眼差しは、人影が見当たらずとも揺れるカーテンや閉じた窓の背後に気配を想定され、もろもろの態度や要素や道具の複合に目的を与え組織化する中心。私の眼差しが自分の存在を安定させてくれる他人の眼差しを求めて見つける時、相手は「そのまわりに世界のすべての道具-事物が単なる手段として配置される」絶対的な中心=最高目的になる。他人の自由が自ら進んで自由に私に屈することを望む愛の変化形として、サディズムは相手が自身を自ら裏切る屈服の瞬間を追求。

2023/02/01

ジョンとらぼるた

「他者のまわりに寛容を実現することは、他者を、しいて一つの寛容な世界のなかに投げこまれるようにさせることである。それは、勇敢な抵抗、辛抱強さ、自己主張など、寛容でない世界の内において彼が発展させえたかもしれないそれらの自由な諸可能性を、原理的に、彼から除き去ることである。…幾つかの原理や価値をア・プリオリに選択し、この原理や価値の名において…とりあつかうことになるであろう。それゆえ、他者の自由の尊重とは、一つの空しいことばである。」480果てなくかっこいい。がどこか切なく、虚しくなってくるのは何故だろう。

2013/04/02

テツ

「対自は 何ものでもないものによって、即自から切り離されている。対自はあらゆる否定性の根拠であり、あらゆる関係の根拠である。対自は関係である」 『存在と無』の二巻。他者についてまとめられている。サルトルについて学んできた時間は長いし何度も読んでいるけれど、何故彼の他者論はこんなに切なく悲しくなるんだろう。サルトルの著作について文学的な捉え方をしすぎていると指摘されたことがあるけれど、結局実存主義的な思考への思い入れが強すぎて冷静な読み方ができていないんだと思う。これは矯正しなければならないですね。

2015/11/09

井蛙

著者は他者を対自に還元することのできない固有の構造として明らかにする(対他存在)。他者はまなざしとして現れ、私を凝固させる。この私の他有化に対して私は他者をまなざし返すことによって対抗する。この私と他者の相克は身体の次元で現れる(私は身体を存在する/私の身体は他者にとって道具である/私は道具的存在としての私の身体を存在する)。ところで私は他者の自由を自らに総合することがけしてできない。他者の自由は手にした途端対象化してしまうからだ。そこからマゾヒズム/サディズム/憎悪という三様の絶望的な試みが生起する。

2018/05/17

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