来るべき書物 (ちくま学芸文庫 フ 10-2)
来るべき書物 (ちくま学芸文庫 フ 10-2) / 感想・レビュー
zirou1984
通称"顔のない作家"こと戦後フランス最大の文芸批評家、ブランジョが50年代に発表した小論を集めた批評集。エクリチュール(文章表現)は書かれた直後に作家から切り離され、書き手は不在になるという主張から成される文学的考察は難解ではあるが、「読まれること」そのものに対する思索を深めることで文学の可能性を切り開いたという点では後続の思想家に与えた影響力大。文学は日常を超えた所にあるからこそ死や実存というものを取り扱えるのであり、そうした非日常的な問題の本質が問い直される度にまた、文学の可能性も更新されていくのだ。
2013/03/13
しゅん
書物を読むこと、書物を書くこと。繰り返しは徒労でしかないが、徒労を複数に、複雑に組み合わせることである豊かさへと変換される。その点を考慮すれば、「文学」は「労働」や「生活」と相反するものではない。しかし、豊かさはA地点とB地点の反復が約束された上でのことかもしれない。あとがきで描かれるカフカとブランショのように、目的地のない「無限の彷徨」の場合はどうなるのだろう?この本を読みながら、そんな考えが到来する。ヘッセとムージルを読み返そうと思った。
2020/04/22
ラウリスタ~
かなり分厚い本。マラルメが立ち向かった問題とか、その他いろいろな作家、作品について語る。もっとも、書評から始まる批評といった感じで、結局は彼の文学観が語られていくことになるのだと思う。文学についての文学とは、なにか奇妙に空虚な印象を与える。無について語ることに近い。ブランショは、マラルメのように、文学すること自体に目を向けるから、その批評は非常に抽象度が高く、何を言っているのか分からなくなる。『来るべき書物』は、まだ存在しない本。バルトが小説の作り方について講義することとも近い本なのか。
2013/04/01
なっぢ@断捨離実行中
20世紀フランス最大の文芸批評家とされているだけあって、当然ながらその思想は難解を極める。来るべき書物とはマラルメが「賽の一振り」で示唆した未だ存在しない書物のこと。「Aではない、Bでもない」と否定を積み重ねていく論述スタイルは今なら(取り分け我が国では)否定神学と揶揄されかねないが、メタ化して問題の解決に向かいがちな哲学者とは異なり、アポリアと粘り強く付き合う姿勢はやはり文学者としてあるべき姿だし、また強みでもあるんだろう。通俗的と馬鹿にされがちなヘッセのような作家相手にも真摯に取り組む姿は感動的。
2017/05/18
Happy Like a Honeybee
言語は語るのでなく、存在する。言葉のなかでは、何も始まらず、何ものも語れない。 抽象的で厳しい書物だった。苦しむと考えることは密やかな形で結ばれている。なぜなら苦しみとは、極度になると苦しむ能力を破壊するからだ(P90) マラルメやバルトなどへも鋭い指摘が。一度で理解できるほど容易くない。
2017/09/28
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