私写真論
私写真論 / 感想・レビュー
多聞
「私」とは、各々が死ぬまで関わり続けなければならない、ある意味で非常に厄介な存在だ。本書ではまず「写真家・写真・世界」との関係が成立していた近代写真の登場と衰退から述べ、四人の「私」を追求した写真家たちの仕事から「私写真」の可能性を探求している。「私写真」は私小説とも似た面があり、「私に直接的に向き合い、その生の経験を提示した写真」である。そして「彼らの写真は過去・現在・未来における彼らの生の経験の等価物であり、それ以上でもそれ以下でもない」ということだ。
2013/02/21
十一
『私』が写っていることより、問いかける『他者』として立ち現れる写真ということ
2014/06/13
子音はC 母音はA
一章で私写真の歴史的経緯を紐解く。二章で中平宅馬、深瀬昌久、荒木経惟、牛腸茂雄を取り上げ、各々の私写真の方向性を開示する。そして三章で私写真論を展開する。(手に負えない)(取り返しのつかない)(開いている)の三つの言葉を軸に私写真という表現の奥深さを語る。 特に荒木経惟の項で、荒木経惟=豆男説の論の展開は面白かった。卑猥な空間を縦横無尽に駆け巡るトリックスターとしての存在。ただ女の裸を撮るというのではなくユーモアを持って性の根源に迫っていくスタイルが詳らかになった。
2014/06/19
水原由紀/Yuki Mizuhara
個別の具体例として。
2013/08/11
yoh_yoh_tune
私と他者と世界。写真に写らないのは私だけだ。
2012/10/24
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