「聴く」ことの力―臨床哲学試論
「聴く」ことの力―臨床哲学試論 / 感想・レビュー
寛生
2度目なのに、というべきか、それとも、2度目だからなのか、とにかく初回よりもなぜか濃厚に感じられた。5、6頁に1時間くらいかかったこともある。デリダがすでにどこかで「他者の他者としての私」という考察をしていると想うが、鷲田先生も同様、本書で「他者の他者としての私」を議論していく。何よりも本書の最も貴重な寄与は《歓待/ホスピタリティ》について。始まったばかりの臨床哲学は、「聴く」ことの力はある意味、理解できない他者をあえてわからないままに迎える。絶望の中にあって何もない《私》にだけ可能になる現象なのだろう。
2015/05/21
chanvesa
この本で宇野千代さんの人生相談の解答の話が出てくる。新聞を取るのをやめて三年以上経つから最近は知らないが、読売新聞の人生相談で何人かの解答者がこのおうむ返し的な解答をしていた。このような受け答えは、システム化してはいけないのだ。「どっちつかず(255頁~)」であることはなにも法則性がない。「『なんのために?』という問いが失効するところで(201頁)」なされるケアという行為には、予測不可能なことへの臨機応変な対応しか届かないと思う。思考としての「聞き流す(76頁)」ことは、定量化できない知恵なのだろう。
2015/02/15
呼戯人
臨床哲学を唱える著者による優れたエッセイ。理論や体系ではなく、肌理を持った試みとしてのエッセイ形式の哲学の可能性を探る試み。カウンセリングに近い臨床哲学は、具体的な苦しみに寄り添うことを通して、哲学の刷新を図る。釈迦ではないが、この世は四苦八苦。苦しみ、悲しみの方が喜びよりも多い。生きる喜びは、その何倍もの苦しみを下敷きにして成り立っている。聴くことを通して、私たちは心を分かち合う。心の分かち合いこそ芸術や哲学、カウンセリングや治療の目的である。
2018/01/04
カンジ
『ホスピタリティの道は、おそらく適当に休みながら、できれば一緒に休みながら、道草もして、うねうね進むしかないのだろう。が、その過程こそが大事なのだろうとおもう。この過程をともにすること、なんの目的もなくいっしょにぶらぶら歩くことこのぶらぶら歩きが持つ意味を、その道すがら考えつめること、』押しつけのケアではない、本質の寄り添いの力強さを感じます。誰のため、何のためのケアか、利用者に話すふりして一緒にいる職員に伝えようとしている、「ほら私、頑張ってますよ」と。そうではないでしょう、と本当に思います。
2020/01/04
y_nagaura
臨床哲学とは、「非-哲学」ないしは「反-哲学」。〈聴く〉、特異性(シンギュラリティ)、一個の事例によって揺さぶられる経験。「苦痛の苦痛」(レヴィナス)。〈存在の世話〉。「受け入れられる者は受け入れる者でなければならない。それが歓待の−そして愛の−掟である。」 「実存的」な面と「職業的」な面、この二つの交叉するところがらまさに〈臨床〉だということ。 難解でしたが、「聴く」こと、臨床哲学を少し理解できました。現代の哲学は、ケアとの親和性が高いのですね。『中動態の世界』もそうでした。
2018/03/06
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