聖書と歎異抄
聖書と歎異抄 / 感想・レビュー
ネギっ子gen
『小さくされた者の側に立つ神』(福音書の私訳)などの著者があり、釜ヶ崎にて失業者への生活支援活動などをしているカトリック司祭と、近年は『親鸞』等の仏教関連著作が多くなった小説家の対談。『歎異抄』の五木寛之氏による現代語訳付き。対談の前の『暗夜の灯として』という文章で五木氏は、本田神父訳『聖書』を始めて読んだ時の衝撃を以下のように語る。<そうか、『聖書』というのは、こんなに自由に読んでいいものなのか。イエスのことばは、こんなふうに受け止めていいのか。訳された文章の背後に、こんな現実が隠されていたのか>と。⇒
2020/04/02
かおりんご
カトリックの本田神父と五木寛之氏の対談。聖書と歎異抄の共通点にスポットを当ててかかれていて面白い!最後に載せられていた歎異抄もよかったです。神だとか仏だとか、人は色んな呼び方をしているけれど、おおもとは実は一つの存在なんじゃないかと思いました。本田神父の著作も読んでみたいです。
2017/09/09
江口 浩平@教育委員会
【宗教】 最近宗教の教えに興味が出てきていたため、図書館で手に取った一冊。 聖書と歎異抄に共通する点を、五木寛之と本田哲郎が対談するという形式で読みやすかった。 興味深かったのは、どちらも師の言葉を弟子が編纂した書物であるということ。本人が書いた物にはどうしても自我が表に出るから、人に向けて語ったこと、人と語ったことが大切になってくるというのは頷けた。確かにどう受け取ってもらえたかが宗教では大事なのであろう。自力と他力の考え方には少し違いがあったものの、どちらも神を信頼して行動を起こすという点で同じ。
2017/10/22
kanata
親鸞の「ひとりいて喜んでいるときはふたりいて喜んでいると思え、…、そのひとりは親鸞である(『御臨末の御書』 (P65)」になぜか惹かれる。社会の時間に倣った上座部仏教【悟りを求めて自己追及するかたち】と大乗仏教【人々の救済を考えるかたち】の違いとか、浄土真宗とキリスト教の繋がりとか、親鸞とイエスのこととか、現代を生きる日本人の課題とか、戦後日本人の罪の意識とか、地方に残る土着の宗教との交わりとか、それはもうあらゆる話に飛び火し、たいへん読みごたえがあった。五木寛之という人の知識はどうなっているんだろう。
2017/09/03
乱読家 護る会支持!
釜ヶ崎で活動されているキリスト者の本田先生と、「親鸞」の五木先生の対談。元クリスチャンで、現在なんちゃって浄土真宗門徒の私には、めっちゃ面白い内容でした。。。 心貧しき者(聖書)と悪人(歎異抄)の共通した救済対象。 「心貧しき者」とは「心底貧しい者」。復活とは蘇生の事ではない。悔い改めるとは「視座を移す」こと。弾圧された「隠し念仏者」。「互いに愛し合いなさい」という訳が、誠実な人たちを苦しめてきた。など、、
2017/09/09
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