悲鳴をあげる身体 (PHP新書)
悲鳴をあげる身体 (PHP新書) / 感想・レビュー
ネギっ子gen
鷲田先生が、暫しご休養の報。朝日新聞の中で『ののちゃん』と並び楽しみにしていた『折々のことば』。ロスの癒やしに書棚の奥から発掘し再読――。ピアシング、拒食・過食、歪められ萎縮する性。本来なら、人を癒し快くする行為が、身体への攻撃として現れている現在。専門の現象学研究に加え、モード批評等含め言論活動を展開し「臨床哲学」を提唱する著者は、<身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している知恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか>と書く。<現在の身体が抱え込んでいる痛みと希望を濃やかに>描いた一書。⇒
2021/02/11
万葉語り
難しかったが最後まで頑張った。身体に隙間やゆるみや遊びが必要だということは分かった。身体は自分のものであって自分のものではないということもなんとなくわかった。皮膚は身体の外側にあるが、服を着ると外側ではなくなるということも納得できた。ところどころの解釈しかできなくて、残念だ。また読んでみよう。2016-250
2016/12/15
ころこ
以前は著者を通じて哲学に興味を持ったといっても良いくらい読んでいましたが、1章の議論などは最近論じられている「弱い身体」という共通項で、近年に多数刊行されたケア系の議論とそっくりです。20年以上同じ議論をし、また昨年も同じ議論で盛り上がっていることに疑問を抱かざるを得ません。身振りに対する議論は、哲学というよりも宗教に近いのではないでしょうか。著者には理論の引き出しが少なく、題材を変えて文化論としての広がりはあっても、数少ない理論を変えて展開しているだけのような気がします。とはいえ、部分的に鋭い指摘が垣間
2020/08/19
kasim
先に読んだ西洋史の身体論が面白かったので、再読。思想系は私には難しいのだけど、文字通り具体的な題材のせいか、これはわりと「腑に落ちる」気がする。いちばん印象に残るのは所有論の考察で、「持つ=意のままにできる」という西洋の考えの根本が体に当てはまるのかどうかという議論。「私は体を持つ」のか、「私は体である」のか。自他の区別はどこにあるのか。持ち物なら売買できるが、臓器売買は欧米でさえ禁止している。私は体の各部分を持っているようだが、それらは必ずしも意のままにならない。だから化粧したり健康法を試したり。
2020/02/13
糸桜
担任の先生がこの本の著者の鷲田清一さんが好きなそうなので読んでみましたが、わかることもわからないこともありました。でもたまに面白いことも書いてあったので、そこは良かったです。まあまあ題名の通りの内容でした。現代における人々の身体への意識とか、そういうことが書いてありました。 久しぶりに新書読んだので全然慣れられなかったけど、たまにはこういうのも読まないと国語の問題読めなくなりそうだし、気分転換にもなるのでたまには新書も読もうと思います。
2016/05/11
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