プルーストとシーニュ: 文学機械としての『失われた時を求めて』 (叢書・ウニベルシタス)
プルーストとシーニュ: 文学機械としての『失われた時を求めて』 (叢書・ウニベルシタス) / 感想・レビュー
syaori
著者は『失われた時~』を習得の物語と定義します。主人公は社交や恋に費やす「怠惰な生活」から無意識に人の身振りや嘘の意味や解釈を習得し、だからこそマドレーヌに代表される突然の啓示から死をも超える歓喜の瞬間を、その先の「真実」を見出せるのだと。さらにプルーストが新しいのはその特権的瞬間を描いたことではなく、作品がその瞬間を生産する「文学機械」であることだとします。主人公が見出す「真実」は「われわれの印象から抽出され」「作品の中にゆだね」られるものでもあるのだと。あの長い美しい物語の秘密を紐解くような本でした。
2019/05/07
燃えつきた棒
ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『カフカ: マイナー文学のために』とともに、ドゥルーズの本の中では比較的手に取りやすい本だ。 大好きな文学作品について書かれた本なので読みやすくはあるが、とてもじゃないが分かったとは言えない。 それでも、興味深い指摘や分析がちらほら。 特に、付録の訳者・宇波彰氏の「ドゥルーズとプルースト」が興味深かった。 いずれ、再読は必至だ。/
2023/09/01
wadaya
芸術の世界はシーニュの究極の世界である。シーニュを単なる記号と受け取ってはならない。シーニュは観念的本質の中に意味を見出す。嘘と真実が異なることは誰でも理解できるだろう。シーニュは時に感覚的である。芸術は感覚的シーニュを統合し、物質的な意味の中に具体化された観念的本質に我々が既に関係していたことを理解する。芸術のような感覚的なシーニュが存在しなければ、我々はそのことに気付かないし、一定の解釈のレヴェルを超えることはできないだろう。全てのシーニュは芸術へと繋がっている。そして最も深いレヴェルは芸術そのもの→
2021/02/01
ゆとにー
一部から二部に相当する章で、シーニュの意味から機能への転回がある。 『失われた時を求めて』はシーニュの習得の物語と定義づけられる。シーニュの解釈は、偶然との出会いによって強制的に開始される類のものである。シーニュのうちでも唯一非物質的で最も高度なシーニュが芸術のシーニュである。芸術作品は他者が見る別の世界の見方を提示している。そのような芸術作品の本質は、絶対的な内的差異であり、モナド的な差異である。
2020/07/12
hitotoseno
一般的に『失われた時を求めて』は記憶にまつわる物語だとされるが、ドゥルーズはその先を追い求める。マドレーヌによってコンブレーを思い出すというのはあくまで踏み台に過ぎず、その先の芸術的な啓示を編み出すために参照されるものに過ぎない。マドレーヌの中に含みこまれたコンブレー、というようにプルーストはその先にある、コンブレーの中に含みこまれた芸術的時間を見据えていた。過去の中に含みこまれた芸術的時間を展開していくために、彼はあれだけの膨大なるページを必要としたのである。
2016/06/18
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