近代文学の終り: 柄谷行人の現在
近代文学の終り: 柄谷行人の現在 / 感想・レビュー
しゅん
前半の講演集における近代文学論と、後半の浅田彰・大澤真幸・岡崎乾二郎との鼎談で色合いが異なる。文学が特権的な場所から離れ、カルチャーの選択肢の一つになったことから、文学を離れる柄谷。そこから、資本と国家の関係へと興味を強め、NAMの実践に映った柄谷。二つの動きの同時進行を伝える。NAMの実質的失敗に対して、「自分が海外にいてすべて電子的やりとりとなったことが、組織としての運営に不具合を招いた」という、ちょっと身も蓋もないような反省を語っている。
2024/06/09
なっぢ@断捨離実行中
イロニーなき終焉を自覚しつつ、それに抗う柄谷はほとんどドンキホーテ(というよりはベケット?)的に見える。が、マルクス史観でいうところの資本主義の終焉にまで歴史はまだ至っていないとの認識も一方で忘れてはいない。どのパースペクティブから見るかで当然歴史の姿は変わってくる。われわれが現在見ている終焉とは単に時代的な機制によって生み出された「風景」のようなものに過ぎず、したがって、ニーチェ主義的にあるいは唯物論的に切断する必要があるのだが、喫緊の課題は「再構築」であって「脱構築」ではないと最後に付け加えておく。
2017/05/07
mstr_kk
再読。文学が特殊な役割を担っていた時代が終わった、という話はじつはあまり多くなくて、大半は「資本制=ネーション=ステートを揚棄するために、生産(労働)ではなく交換様式に注目しよう」という話です。しかし、労働者が消費者でもあるという点に着目したのは、別に柄谷さんが最初じゃないというか、むしろ吉本隆明の根本的な発想がそれだったのでは、と思います。そのことを柄谷さんが知らないはずがないのに、なぜか言わない……というか、吉本さんから影響されたこと自体を、もう忘れてしまっているのでしょうか。
2015/11/14
あなた
私はこの本を読みながら柄谷行人の「終り」について考えていた。なぜ彼のコミットメントがわたしたちと縁遠いものになっていく。事実、彼は「文学」ははっきりと捨てることを明言し、産業資本主義と国家が結託した海原へと旅立っていた。漱石論をぶちかましていた「行人」はその名のごとく別の「わけわかんねえ」フィールドへと旅立ってしまった。わたしにとってこの本を読むことでひとまず柄谷行人は終わりかなあ。浅田彰も以前は教授から「彼名にやってるの?」といわれて即答できたが、いまは彼もなにやってんだかよーわからん。続
2010/08/18
Gakio
憲法9条は、改憲したほうがいいのか、しない方がいいのか、とても難しい。
2022/08/22
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